生きづらいよね人生

摂食障害と双極性障害と一緒に生きています

朝から夜ごはんのことを考えている

毎日起きてすぐに朝から今日の夕飯のおかずについて考えて、
準備をしてから仕事に向かう。
そんな毎日を過ごしていたら
朝から今日の終わりに向けて、終わりだけを目指して
過ごしているなあとふと思ってしまった。
ただ毎日をたんたんと消費するためだけの毎日を過ごしてしまっている。
今日という日を24時間をただ時間を経過させるためだけに
生きているような感覚になる。ただただすり減っていく。

だいたいの人はそうなんだと思うしこれが生きるということなんだと思っているけれど、ただ毎日を同じように過ごして繰り返して
時間を消費して死ぬまでずっとこうやって続いていく。

ゴールはみんな一緒だから
その間にできること、やれること、
その人生に意味を持たせることひとそれぞれだ。
最初から意味が決まっている人生だったら
「わたしが生きている意味なんてないんだ」なんて卑下する人は
いなくなるのだろうか。

生きる意味なんて無いもんだと思う。
与えられている意味なんて無いと思う。
意味は自分でつけなきゃいけないんだと思う。

たんたんと生きていられる、同じことを繰り返す毎日が
幸せなことだということも頭の片隅では理解しているつもりだ。

ただ、自分自身が死んだときに
ひとりでもいい。
この世からいなくなっても心のどこかに生き続けることができたら
この人生無駄じゃなかったと思えるかもしれない。
だれかの生きる希望になれたらいいなと思う。
希望なんて大げさかもしれないけれど、
あんなやつが生き抜いたんだからわたしもちょっとだけ
生きててみようかなと思ってもらえる人になれたらいいのにな。

こういうもどかしい気持ちを言葉にする術も
自分から何かを企画して動かす術ももっていなくて
ただ悶々と気持ちを吐露することしかできなくて本当に情けないけれど
いつか生きづらい人の生きづらさをすこしでも楽にできるような
そんな人間になれることを夢見て・・・。

他人軸と自分軸

誰かからありがとうとか助かるよとか言ってもらえることで
自分を認められているところが子供時代からあった。
とくに覚えているのは、子供のころ通っていた教会での手伝いを率先して
やっていたこと。祖母が牧師婦人として祖父を支えていたのを見ていたから
遊ぶことに熱心なほかの子供たちには混ざらずに
ひとり、大人に混ざって食器を洗ったり食事の手伝いをしていた。
なによりも祖母に「いいお嫁さんになるね」とほめてもらえたことを
今でも覚えている。ひたすら愛想をふりまいていた。

誰かのためだけを考えて行動すること。
それは自分で自分を認めることができなかったからだし
だれかに喜んでもらえること、だれかを不快にさせないことが
正解で当たり前であるべき姿だと思って生きてきた。
たとえ自分の思っていることと違うことがあっても
誰かの考え方に賛同して、自分をひたすら押し殺してきた。
自分なんか最初からいないものだと空気と一緒なんだと。


でもそんな生き方をしてきたら、本当の自分も
自己肯定感も自分の意見もなにも持てなくなってしまった。
全部自分軸じゃなくて、だれかの意見、その場の雰囲気、空気
そういう他人軸で物事を考えるようになってしまった。

自分軸で考えて生きることと、自己中心的に生きることは
意味が違うと思う。だからもっと自分の頭で考えて
周りの意見に左右されないで、わたしはこうしたい、
こっちの方がいいと思うって主張できたら少しは楽に生きられる気がする。

だれかの考えも目線もいらない、自分がどう思うか。
もっと自分の気持ちに素直でいられたら、楽になれるのにな。

自分の人生自分しか生きられないんだから
そのときその場でしか関わらないほかのだれかなんて
ほっておいたらいいじゃない。なんと思われたっていいじゃない。

そんなメンタルで生きられたらいいのになあ。

SNSの弊害

高校生のときの先輩、少しだけ親しかった人や
いまでもやりとりがあるような人が
普段生きていたら交わることのない人の
日常を垣間見れるのがSNSなんだ。
全然交わらない日常をお互いが見ることができるのはすごいことだ。
でも見なくてよかったものを見てしまったり
心が沈んでいるときにだれかの幸せを見ると
ああ、わたしはなんて空っぽでなにもできないんだろうとさらに落ち込む。

他人と比べてそれを卑下することは全然有益じゃない。
他人と比べてがんばらなければと昇華に力をまわせれば
他人と自分を比べることは悪いことじゃないと思うけれど。
そんないつもいつも前向きな気持ちでいられるわけじゃないから
苦しくなってしまう。つらくなってしまう。
ただ毎日を繰り返す自分が情けなくなってしまう。

自分がからっぽなのはわかっているのに
なにかしなければなにも変わらない変われない、
現状維持なことも頭ではわかっている。

動けないからつらい。なにもできない。
それでも毎日生きてるだけでえらいよ。
精神疾患をかかえて生きている人はもっと偉いよ。
すごいよ。
だから精神疾患を抱えている人への風あたりの強いこの世の中が憎い。
鬱の人はああだから、こうだから、勝手に決めつけようとする。
精神疾患を掲げた途端、腫物を触るみたいに扱う。
病気を生きたくて病気になったんじゃない、
生きていたら病気が自分の一部になってしまっただけだ。
それと向き合いながら生きている人が
なにも抱えてない人よりどれだけ大変ですごいことか。

もっと必死に生きている人が真面目に生きようとしている人が
認めてもらえる世界になってほしい。自分ひとりじゃ変えられないけど。

人生一度しかないから正しいも間違ってるもないと思うことにした。

普通の人生、普通の会社、普通ってなんだろう。
最近「普通」っていう言葉が使われるとすごく違和感を感じる。
何気なく発せられる「普通」という言葉の中に
人並に働いて、家庭を築いて人生を終えることがまさしく正解のような
意味がこめられている気がしてならない。

もちろんそれが悪いとかじゃなくて、いわゆる普通といわれる
生き方を選ぶこともそのひとの選択であって
普通のその中に他人からは見えないその人だけが見ることができる
普通から外れた日常が隠れていたりするのかもしれない。


そういうほかのだれかの生き方を見ることができる方法のひとつが
読書だと思っている。もちろん事実にもとづく話ばかりではないし
現実にはありえないお話もある。それでも、自分が通ることのできない
人生を本を読んだら知ることができる、こんな生き方もあるんだと
少しだけでも世界が広がる。

仕事をして家に帰ってだらだらYouTubeをみて家事をして
わたしが生きている世界はとても狭い。
狭い世界の中だけにいると、こうでなければいけないや
こうあるべきということが増えてしまう気がする。

だから本を読む。いろんな生き方を見て自分の世界の狭さを知る。
自分のものさしだけでは正解も不正解もはかりきれない。
だからなおさら、他人にあなたの生き方は間違っているだの
おかしいだの言われる筋合いはないのだ。
自分は自分にしか生きられないから。


いろんな生き方があっていい。
そう思わせてくれる世の中になってほしい。

もっと優しい世界になってほしい。

かしょく

最近また過食欲が大爆発している。
なるべく過食してしまわないように仕事に行く前の時間や仕事が終わってからは、隙間をうめるように
家事をせかせかとやるようにしている。のだが・・・それでもどうしても詰め込みたくなりちょっとでも空いた時間があると目につくもの詰め込み始めてしまう。その後自己嫌悪に襲われる。
いまは同居人がいるので、同居人には気づかれないようにひそかに詰め込む。いままではひとりでいつでも過食ができた。状況が変わり、常にだれかといる生活で生活リズムが整って
過食も徐々に減っていた。それなのに、私の中の食べたい詰め込みたい欲は細々と生きていたみたいだ、もう完全に治ることなんてないのかもしれない。それでも生きていかないといけなくて、過食と一緒に生きていかなきゃいけなくて、過食といっしょに生きていこうと覚悟を決めたつもりだった。でも今日はその自分で決めた覚悟にこころが折れそうになっている。過食を生きているわけじゃないのも、わたしのすべてが過食じゃないのもわかっているのに、わたしの一部を占めていることさえも恨みたくなる。
お金もなくなった、時間もたくさん使った。それでも経験したからこそできることもあるじゃないと前向きに今は考えられない。
それでもわたしはわたしのために生きられない。
誰かのためになれたら、生きてていいと思えるんだ。
まるで化け物、そんなふうに思ってしまうときもあっていいのかな。
だれかわたしを許してほしい

からっぽ

子供のころは、だれかと誕生日が一緒なことがけっこう重大なできごとだった。
クラスの中で嫌われているあの子と一緒なことを嘆いたり嫌がったり、好きな人と誕生日が一緒と知れば心の中でひそかに喜んだ。
子供のころは手に握りしめている100円でなんでも買えると思っていたし、100円玉の価値は絶大だった。

年だけ重ねた今のわたしには誰かと誕生日が一緒ということも100円玉も驚くほどの価値はない。子供のころ、自分にとって重大だったことは大人になったら重大じゃなくなるみたいだ。それが大人になるってことなのだろうか。


別に昔に戻りたいわけじゃないけれど、だれかと誕生日が一緒でうれしくなったり嫌な気持ちになったり、100円握りしめてなにが買えるか悩んだりできる心を忘れたくない。

自分で自分のことを大人になったんだとも思えないのに、社会の中ではもう立派な大人として扱われて、中の人間はただ年だけ重ねたなにもない空っぽなやつで、がんばって中身が見えないように生きている。そんなことしているから生きづらいのかもしれないな。

だれかひとりでもいいから仮面をかぶらない空っぽな自分を受け止めてくれる人がいたら
救われるのだろうか。からっぽを抱きしめてもらえるだろうか。
その空虚な孤独なだれかの心を抱きしめられる、そのからっぽを全力で肯定したい。
そんな存在になれたら、、いいな。

空虚な自分を人に見せること

最近頭の中に文章が出てこない。
つい最近まではいろいろな考えや思うことが頭の中にたくさん浮かんできて
それをああ、明日になったら今思ったことは忘れちゃう、書きとどめないと。
そんな思いもあって書き始めたブログだが、
ここ1週間ほどは、前みたいに考えがほぼ浮かんでこない。あれもこれもと考えられなくなっている。気がする。

生きづらい人のためになにかできないか!と思う気持ちももちろんあるけれど、それはわたしがその生きづらさを抱えた当事者でもあるがため、生まれた気持ちであって
わたしも苦しくなることはもちろんある。今まさに、ひさしぶりの希死念慮に襲われている。
とはいっても、それでも文章をかけているので本当に一番ひどい段階ではない、のかもしれない。

本当の一番の心の奥で思っているつらい、助けて、聞いてほしいことを一番聞いてほしい人に言えないまま、どうしようもなく途方に暮れてしまっている今のわたし。
昔からそうだった。一番頼りたい母に頼れず、なにも困ってない悩んでないわたしをずっと演じてた。そう、演じていたのだ。本当のわたしはそんな完璧な人間でもなんでもなくてからっぽで
過食で食べては吐いて、食べ物を買うお金がなくなって借金をするような人間だ。
でもお金がなくなっても、苦しくても、母には言えなかったし頼れなかった。
完璧でいなければ、頼りがいのあるわたしでいなければ愛してもらえないと心のどこかで思っていた。
本当の状況を伝えられていたらきっと家に戻ってこいと言われ、いったんは負の連鎖が収まっていたのではないかと今となっては思う。
母にいい顔したいがためにずっと隠してきたことがいつかは見つかるかもしれない。
そのほうがずっと母へのダメージは大きいのではないか。
本当に守りたい人を守れずに迷惑をかける結果になりそうで怖い。八方美人をして誰にも嫌な顔されたくなくて、本当は一番傷つけたくない人を傷つけてしまいそうで怖い。
母はわたしのことでももちろん苦労しているのだが、母の弟(おじ)も昔から問題児であり
このおじの存在があったから、余計に母の前ではしっかり完璧でいなければ、支えなければ、
手をかけさせるようなことがあってはいけないと思うようになった。
特に金銭面でおじはとてもだらしなく、何度も何度も母からお金を借りるような人だった。
母からだけではなくもちろん銀行のローンや消費者金融からもお金を借りていた。
そんなおじの姿を子供のころから見ていたわたしは、ぜったいお金を母から借りることはできない。と思うようになった。
さらに追い打ちをかけたのは、父の死だ。
私が大学3年のときに父は亡くなった。このことでさらに自分のことは自分でなんでも
しなければ、母に余計な負担をかけてはいけないと強く思うようになった。
その結果、過食で足りなくなったお金をわたし自身が
消費者金融から借りるという夢にも思っていなかった事態を自分自身でつくってしまった。
このとき頼れていたら、本当のことを話せていたら、今どうなっていただろう。
空っぽのなにもない自分をさらけ出せていたら、なにか変わっていただろうか。

誰にも迷惑をかけたくないのに、こうなってしまった過去の自分を呪いたい。
もうどうしようもないけれど、こんなことを考え始めると生きるのって難しいなと
思わずにはいられない。
まともに生きるって難しいな。

わたしの大好きな先輩の作品をはっておきます。

空(カラ)の味

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